2008年01月12日

BS関係者の2極化

ここ数年のBS関係者を見ていて思うことがある。

いっとくけど、いやいややっている指導者、関係者や名前の登録だけで
活動にまるで顔もださない連中は端から度外視しているからね。

一応、活動に対しては熱意をもって参加している指導者、関係者に
限っての話。


ひとつの方向はBS活動を特殊なものとせず、社会の中で普遍性を持たせ
青少年育成の大きな流れのひとつとして社会に容認される状態を目指そう、
と考えている方々。

事実の問題としてBSの活動、組織はある種、外側からは伺いしれない部分があり
その独自性と先鋭性から一部では「宗教」のように認識されかねない部分がある。 だからこそ熱心な方々も存在するし独自の文化をもって100年続いてきた、ともいえるわけだが、昨今の多様化した価値観を容認する社会に対応すべく、そして今後もこの活動を社会に埋没させないように、とより社会とのインターフェイス部分での普遍化をはかり特殊性が場合によっては薄めることで認知をひろめよう、としているように思える。

ひとつの例としては指導者研修の門戸を広げ、参加形態のバリエーションを増やし、先鋭性も持たない層までも取り込む方向がある。
あるいは「社会のニーズ」として活動の方向性を「子育て支援」の方向に大きく転換することも念頭にあるような運動そのものの転換、試行を考えている方々もいるようだ。

そう考えるとSAJのH19年度の重点事業計画としてさんざん物議をかもしたBSーVSの統合に始まった制度改革の話やCSを学齢から、BVSを学齢前の2年間とする部門年齢の改革などもこうした流れにそったもの、といえる。

電脳三指業界でもこちらに属する論客というのも数名、すぐにHNが思い浮かぶ。


それに対して、普遍性を否定はしないまでもBS活動の独自性の保持にこそ心血をそそぎ、その純度を上げることで社会の認知を高め活動の持続を実現しよう、と考える方々がいる。
ともするとスカウト原理主義、といわれてしまう方がの多くはこちらに属することになるだろう。

社会通念とは若干の距離が仮にあるとしてもそこにこそスカウトとしてのアイデンティティを感じることもあるようだ。

どちらがいいか、というものではないと思うのだがひとつ私も残念でならないことがある。


前者の方々のBS活動の愛し方、もわかるのである。
社会に受け入れられて、スカウトの数が確保できてこその運動だろう、といえばそれはその通りだろう。 そして社会に受け入れられるために活動の独自性が薄められ、研修の特異性が薄れ、多くの選択肢の一つとして認識されるものとなってもいたし方ないではないか。 という現実に即した議論。

でも、昭和50年代までの日本では、あるいは現在でも国によってはスカウト活動は、その独自性によって、スカウトとしての特異性によって認知され、求められ、活動人数を増やし、そのステイタスを保持してきたはずなのである。

いつのまにかスカウトの独自性は社会に受け入れられないものになって
しまったのだろうか。

そこがものすごく残念なのだ。

社会の変容がその根底にあることは論を待たないが、その変容にあわせて独自性を薄めることは「迎合」ではないのか?
ほんとうにこの独自性は時代遅れの歓迎されないものに堕してしまったのか?
 
いまの社会の状態、そしてその向かう方向に対する危惧は多く語られて
いる。 社会教育力、家庭教育力が著しく下がっていることへの懸念も語られて久しい。

だからこそ、そうした社会への「警鐘」の意味も含めてこの運動の独自性を今こそ再検証して再構築しその立ち位置を確かにすることこそ求められているのではないか。

そう思うのだがどうだろうか?


すでに脳みそに毒がまわってしまっただけなのだろうか?
posted by It's classified. at 13:20| ☔| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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